水面上のカイツブリの親子
「死ね。」

・・・これが母の口癖でした。

私は幼いころから母を「親」として認識した記憶がありません。

否、正しくは親として頼ったり尊敬したことがないという感じでしょう。
ただ「生活のため」には居てもらわないと困る存在だという認識はありました。
保育園や小学校に通う幼い私が自力で生活費を稼ぐことは出来ませんから。

なので生きるためにはどうしても母の存在は必要不可欠だということを幼い私でもそれだけは理解していました。

だからこそ母に見捨てられないようにしなければならず、物心ついた頃から母の顔色ばかり伺っていました。

なぜそこまでしなければならなかったのか。
まずはそこからお話ししていこうと思います。
熊の大きなぬいぐるみと向かい合って座る小さな子供
―母はヒステリックで傲慢で融通の利かない人でした。
モラルは関係なく自分の意見が一番正しくて、それ以外の自分が納得いかないものに関しては全否定するのです。

そして機嫌が悪いと理不尽なことで腹を立て、周囲の責任として押しつけていました。
しかも1度キレると家の外にまで聞こえるほどの怒声で叫び、とにかく厄介だということで母の意見には絶対服従が我が家の暗黙の了解となっていたのです。

そんな母だからとにかく怒らせないようにと、私は4歳くらいからもはや母のご機嫌伺いをしなければならなかったのです。

とにかく母に気に入られることをする、母に褒められるように振る舞う、それが私が生きるためにしなければならないことでした。

 

・・・このような環境にあったせいで私は大人になってからも人の顔色を伺うのが癖となり、そこを気にするあまりコミュニケーションに弊害が出るようになってしまうのです。

そしてこれが私の「生きづらさ」の原因のひとつとなるのです。
白いハトの入った鳥かごを抱きしめる少女
母はとにかく人間嫌いで父や祖母だけでなく、ご近所や親戚など関わり合う人たちの悪口ばかり毎日のように言っていました。

常にネガティブ思考で他人の意見にも否定する癖があり、認知の歪みも相当酷いものでした。

そしてその愚痴の捌け口は主に私でした。
けれど幼い私はただ母の愚痴を聞き、それに同意する(しなければならない)ということを当然のようにしていました。
これも母に気に入られる、怒らせないための行為。

本当に相手が悪いのか、母が正しいのかという選択や思考など許されないのです。

もし刃向かったり相手の肩を持ったり、母の意見に反発しようものなら途端に攻撃の刃がこちらに向いて恐ろしい形相で長時間怒鳴られるという恐怖を味わうことになるのだから・・・。

更に母は異常に閉鎖的で家族以外との付き合いはほぼありませんでした。

この「人を徹底的に避ける」「愚痴のサンドバッグ」「自分の意見や思考を禁じられる」という母の行為が後の私を苦しめる要因ともなるのです。
膝を抱えて塞ぎ込む女性
こんな母に育てられた私は、当然ながら人との付き合いがよくわからないまま集団生活の場「学校」へと行くことになるのです。

友達は普通にいて仲良しグループにも入っていたものの、やはり浮いてしまうことがありました。
突然機嫌を損ねて友達を困らせたり、かと思えばやたら構ってもらいたがっておかしな行動で気を引いてみたりと、今の私が把握出来るのはこのくらいなので当時は無意識のうちにもっと迷惑をかけるような奇妙な行動をしていたかもしれません。

恐らくそのせいで少しずつ友達との距離が出るようになってしまいました。
しかしそんな亀裂が生じても、とにかく母のご機嫌取りだけはし続けなければならなかったのです。

例えば母にどんな暴言をぶつけられても受け入れなければならないのですが、私が「体調が悪い」と言うと
「じゃあ癌だ。死ね。」

と笑いながらそう言うのです。

本人はもちろん冗談のつもりでしょう。
けれど冗談だったら何を言っても良い訳ではありません。
快く思わない人だっているということを母はわからないのです。

だからといってそこで否定や反発をすれば逆ギレされて恐ろしいことになる、それだけはどうしても避けなければならなかった・・・。

だから私はどんなに酷い冗談で傷付くことを言われても笑って受け入れるフリをしなければいけませんでした。

母から死ねと言われた回数は数えきれませんが、私が母に死ねと言ったことはもちろん一度もありません。
口からナイフを吐き出して相手の心臓を攻撃するイラスト
そして母から受けた教育やしつけはとにかく母の機嫌や感情に左右される酷いものでした。

まず叱られて謝罪しても許してもらえないのです。

「謝ったくらいで許してもらえると思うな!!」
と怒鳴られます。毎回このパターンです。

なのでしっかり反省もして何が悪いのかも理解もしている私はもうこれ以上どうしたらいいのかわかりません。

土下座でもすればいいのだろうか・・・と小学生の時に本気で考えたこともあります。

いくら泣きながら何度も謝罪しても母は一切無視。

そして許されるのは母の機嫌が直ったとき。酷いと1週間かかることもありました。

この「謝っても許されない」という状況がどれほど私を精神的に追い詰めたことか。
例えるなら身ひとつで海に投げ出され、遠い沖まで流されてどこにも掴まる所もなく足も着かないような絶望状態なのです。

やがて私は母に叱られたら反省や悪い事への理解をするより母の機嫌を取る事だけに必死になったために、何が悪い事なのか、やってはいけない理由が何か、ということすら理解することが出来なくなってしまったのです。

恐怖と極限状態に追い込まれて精神的余裕がない状態で正しい理解をさせることなど不可能です。

ましてや幼い子供ならなおさらのこと。
こんな「しつけ」や「教育」は本末転倒でしかありません。
両手で顔を覆って泣く少女
そもそもこれを誰が「しつけ」と呼べるのでしょうか。
完全な虐待です。

子供がほんのちょっとの些細な間違いをした程度なのに、法に触れるような犯罪をした訳でもないのに、ここまで許さないというのはあり得ないものです。

―ちなみにこの時の母の真の目的は、自分の親としての権威や力の大きさを子供に見せつけるためにこうした支配を振りかざしてしていたのだと思います。
そして泣いて許しを乞う子供の姿を見て満足感や達成感に酔いしれていたのでしょう。

その快感を味わいたくて「しつけ」を利用していたのだと思います。
涙を流す女性の目のアップ
こうして普段から理不尽な思いをさせられていましたが、もっとも理不尽な叱られ方をされた出来事があります。

それは小学校3年くらいの時のことです。

私が帰宅途中に買い物帰りのご近所さんに会ったのですが、その時にバナナを一房いただいたのです。

バナナは母の大好物。これは喜んでもらえると心躍らせながらバナナを大事に抱えて持ち帰りました。

―ところが。

「〇〇さんからバナナもらったよ!」
と言うと・・・

「なんでよりによってあの人からもらってくる!?そんなもの今すぐ返して来なさい!!!」
と鬼の形相で怒鳴られたのです。
悪魔の顔が彫られたバナナ
・・・実はそのご近所さんは母が大嫌いな人。日頃から悪口の対象としている人だったのです。
しかしそれは私もわかっていました。

でも相手が善意でくれたのだからもらうことは何も悪いことではないのだし、バナナをこんなに沢山くれたのならいくら普段嫌っている人であっても母も喜ぶに違いない、と幼心にそう信じていたのです。

···しかしそれは母にはまったく当てはまりませんでした。

私は怒鳴られたショックと、善意でくれたものを返さなければならないという、相手の優しさを無下にしてしまう事への罪悪感でいっぱいになり、泣きながらご近所さんの家へと向かいました。

けれど泣いていたらそれこそ迷惑をかけてしまう・・と思った私は必死に涙を拭って気持ちを落ち着けて玄関のチャイムを鳴らしました。

そして先ほどあげたバナナを抱えて玄関に立つ私の姿を見て、不思議そうな顔をしたご近所さんに対して
「ごめんなさい。お母さんから返してきなさいと言われたので・・・」
とできる限り相手に配慮して、必死に涙をこらえてそう言ったのです。

しかしさすがに泣いていたことはバレてしまったようで、そこから状況を察したご近所さんから
「···なんか余計なことしちゃったね。ごめんなさいね。」
と謝罪されたのです。

これにはもう心が痛んで仕方ありませんでした。
床に散乱する割れたガラス
・・・なんで私が怒られなきゃならなかったんだろう。何も悪いことしていないのに・・・。

そんな思考が駆け巡り、ぼろぼろでぐちゃぐちゃになった心を引きずって帰宅したのです。
そして帰宅すると玄関で待ち構えていた母が驚くべき発言をしたのです。
「ごめん。あそこまで言う必要なかったね。」

···珍しく謝罪してきたのです。

さすがに今回ばかりは理不尽な叱り方をしたと悟ったようでした。
そこで私はまた大泣きしてしまいました。

―別に母から謝罪されたこと、私のつらさを理解してもらったことが嬉しかったわけではありません。

私の気持ちもご近所さんの気持ちも蔑ろにする、人の優しさをこんなにも酷く突き返す母の所業が本当に信じられなかったのです。

感情的勢いであったとしても、たった1度の言葉でも、傷付けられたショックはとても大きく取り返しの付かないものとなってしまったのです。
謝罪されたとしてももう許せないレベルでした。
このように母のしつけは感情次第。

以前は怒らなかったことも機嫌が悪ければ怒るなどという状態なのでもはや「何が正しくて何が悪いのか」ということがわからないままでした。
植木で作られた迷路の全体を上から眺めている
だから私が母の顔を思い出す時は、いつも眉間にシワをよせてしかめっ面でにらむ顔です。
笑っている時は人を馬鹿にしたり悪口を言っている時だけ。

良いことがあって笑っている顔はいつもどこか引きつっていてわざとらしく、お礼や褒め事を言う時はとにかく嘘くさくて「無理やり言ってやっている」感を醸し出していました。

なので私は母に褒められる事が大嫌いでした。
機嫌を損ねさせないために褒められることをしていただけで、母に認めてもらうことが幸せではありませんでした。
青い炎のロウソク
学校で作文を書いても絵を描いても芸術面で長けていたので先生やクラスメートから褒められることがよくあった私でしたが、次第に母にだけは見せないようになってしまいました。

母の褒め言葉には純粋に私を褒めるのではなく「自分の娘はこれだけ優秀だから、そういう娘を産んで育てた母親の私こそが偉い。」という解釈が含まれているように感じたのです。
だから母の褒め言葉を聞くたびに気持ちが悪くてしょうがなかったのです。
黒い箱が無数に浮かぶ高い塀で覆われた場所
そして母からの悪影響の中でもっとも厄介なものがあります。
それは今現在もトラウマの後遺症のような感じでくすぶっているものです。
「それ」に気付いたのは小学生の頃でした。

―算数の授業中、黒板に書かれたとある問題を解くことになった時のこと。
私が当てられて黒板の前で計算式を書いてその解説をする、ということになったのです。

問題は難なく解けました。
そして先生から

「じゃあ解き方の説明を自分の言葉でしてください」

と言われたのですが・・・

 

「・・・・・・・・・・・」

 

言葉が何も出て来ないのです。
計算も解答も正解しているのです。

―でも説明の仕方がわからない。

緊張とかそういうものではありません。
頭の中に「自分の言葉」がひとつも浮かばないのです。

どうして?
どうすればいいの??

それだけが私の頭の中を巡っていました。

そして無言のまま立ち尽くす私を見かねた先生が
「解き方はわかっているんだよね?」
というのでうなずくと
「じゃあ席に戻っていいよ」
と何とか事なきを得たのです。
黒板の全体像
この時、私は初めて「自分の言葉で説明が出来ない」という状態を自覚したのです。

結局私は学生時代、黒板の前で問題を解いても自分の言葉で説明をしたことは一度もありませんでした。

そしてこの状況だけでなくとにかく様々な場面において「自分で考えて自分の意見を言う」ということが苦手だったり、ひどい場合は出来ないのだということを悟りました。

···ではなぜそうなってしまったのか。
それはこんな経緯が原因だと思っています。

母は言い返される事が大嫌いだったために子供である私には特にキツく禁じていたのです。

「子供は親に絶対に逆らってはいけない」
これが母の教訓でしたから。

なので叱っている時はもちろん、それ以外の普段からでも言い返したり反抗的な態度を取らせまいと、母は私に意見を言うこと自体一切禁止してしまったのです。

それは例え母が間違っていても指摘することすら許されませんでした。

どんな理由であれ発言しようものなら
「うるさい!黙れ!!」
と制止され、それ以上を許されないのです。
イライラして怒鳴る女性
・・・次第に私は自分の意見を言うことに恐怖を覚えトラウマとなり、自分の気持ちや意見を思考することも出来なくなってしまったのです。

なので学生時代は「何を考えているかわからない」と母や友人からよく言われました。

そもそも原因は母にあるのに、そこを母に指摘されること自体おかしなことですが、本人はその因果関係にまったく気付いていなかったからです。

どこまでも「自分は優れている母親」と自負していたから・・・。
冷めた表情の女性
その後、私は「発言が苦手でおとなしくて消極的な生徒」というレッテルを貼られ、そのまま中学生になったのです。

···そしてそれは中学1年生の終わり頃に何の前触れもなく突然始まりました。

学校の廊下である女子とすれ違うとわざと「だんっ!」と足音を鳴らしていくのです。

原因はまったくわかりませんでした。
何より名前も知らないし面識がまったくないので。

その時は「感じ悪い子だな・・・」くらいでそこまで気にはしていませんでした。
ところが2年になってクラス替えを行った結果・・・

なんと運悪くその子と同じクラスになってしまったのです。
そしてそこから一気に「イジメ」が始まりました。

最初は私に聞こえるように遠回しな悪口。
そしてそれに対して私が言い返さない事、明らかにダメージを受けているという事を知ると更にエスカレートして直接バカにして嘲笑したりと嫌がらせをされるようになりました。

しかもそのイジメに小学生の時に友達だった子まで加担するという始末。

クラスメートも気付いてはいたのかもしれませんが誰も助けてはくれず、とにかく私と関わらないように距離を取っているようでした。

こうして私は完全に孤立してしまったのです。
たくさんの同じ人型の置物からひとつだけ離れた位置にある置物
そんなことが数ヶ月続いたある朝、学校へ行こうとすると吐き気に襲われるようになりました。

最初はえづきながらも無理をして登校していたのですがそれもつらくなり、ついには朝、玄関に行くと動けなくなってしまったのです。

さすがの母も異常に気付き「あんた、もしかして学校でなんかあった?」
と聞かれたので、そこで初めてイジメを受けていることを打ち明けました。

すると母はすぐに父にも報告。
怒り心頭となった両親はすぐさま学校へ連絡。

そして担任とイジメをした女子を交えて話し合いをするということになったのです。

 

 

話し合いの当日。

まだ授業が行われている時間帯に私と両親、担任と加害者の女子の5人が空いている教室に集う形となりました。

そこでまず私が彼女から何をされたのかを一通り話したあと、加害者の女子が「イジメのいきさつ」について話し始めました。

まず、なぜ面識のない私をターゲットにしたのかと言うと、ある教師から「お前、月狼と顔似てるな」と言われた事がきっかけだというのです。

そうやってからかわれたことが彼女の気に障り、その怒りは教師ではなく似ている私の方に刃が向いたということでした。

それを聞いた母と担任は私と彼女の顔を交互に見て
「あぁ〜確かに似てる。」
と言ったのです。

···それはそう思ったとしても、今この場で口にするべきではないのでは?と私は思いました。

少なくとも「似てる」という言葉がいじめの発端となったのだし、そうやって認める人が増えることで加害者の女子の更なる怒りや癇に障る部分を刺激してしまうのに···と感じた私は、母と担任の言動に苛立ちを覚えたのです。

―その結果、また被害を受けるのは私なのだから。

そして担任はこんなことを話し出しました。
「・・・実は彼女は訳あって母親と一緒に住むことが出来ず、施設に預けられているのです。そのフラストレーションからイジメをしてしまったのでしょう」と。

するとそれを聞いた母が
「えっ!?そうなんですか・・・」
と途端に表情を変え、同情し始めたのです。
悲しげな目をした犬

―実は母も幼い頃に自分の母が他の男性と駆け落ちしたために捨てられていて、そのすぐ後に父も病死。

兄と共に父方の叔母の元で育てられることとなったのですが、その家では叔母から散々虐待を受けて毎日トイレで泣きながら過ごしたという過去を持っているのです。

その過去の自分がこの加害者の女子の背景と重なったのでしょう。
―しかしだからといってイジメが許される理由にはなりません。

けれど母は自分本意の性質。
我が子より自分の生い立ちと同じ境遇の加害者女子に終始同情して
「それなら仕方ないですね・・・」という形で勝手に納得する形にしてしまったのです。

そして帰宅してからも
「あの子、大変だね。可哀想だね・・・」
と加害者女子への同情ばかり聞かされ、これには完全に絶句させられました。
少しだけ欠けたタンポポの綿毛
「···この人は一体何を言ってるんだ?娘の私がイジめられて登校拒否にまでなりかけてたのに。まさかイジメの加害者に同情するなんて・・・あり得ない!」

この時、私は母にどれほどの憤慨と絶望を味わわされたことか。
今でもこの件は許していませんし、理解も出来ません。

「やはり母は頼りにならない」
常に漠然とそう感じていたことがここから確信を得るようになりました。

―ちなみに母の日頃の「しつけ」がやたら歪んでいたのは母の幼少期のこの叔母との関係性が原因です。

自分がかつてされていた攻撃や支配を、あの時何もできなかった苦しみやフラストレーションを解消したくて親となった今、自分が攻撃や支配が出来る側となったことで娘である私にぶつけて発散させていたのです。

・・・これが虐待の連鎖です。

―後日談ですがイジメをしていた女子はその後、さすがに何もして来なくなり、その半年後に母親が再婚して一緒に暮らせることになったために転校して行きました。

しかし私がイジメを受けた事で親が乗り込んできたという事が加害者女子のリークにより、クラス中に知れ渡っていました。

それが良くない印象となったようで私は相変わらずクラスで孤立。
イジメには至らなくてもキツい態度をしてくる男女が何人かいました。

 

···しかも実はこの後にも別の生徒からの様々なイジメを受けていました。

何よりタチが悪かったのは隣のクラスの男子三人組からの悪質なイジメ。

これは卒業するその日まで続く事となるのですが、結局イジめられている事を打ち明けても大した解決にもならないし、何なら次のイジメが起きるきっかけになっていると思った私はもう

「親や先生は頼りにならない。」

と誰にも打ち明けずにひとりで耐え忍んだ結果、精神崩壊を起こすまで追い詰められることとなるのでした···。
静かに波打つ水面
そんな状態のままで私は高校生となり、自分の進路を決めなければならないという時期を迎えた時のことです。

正直私にはそこまでやりたいこともなく、進学するのか就職するのかも何も考えられませんでした。
イジメや母からの虐待のせいで病んだ精神による虚無感から夢も希望も持てず、もう人生も将来もどうでも良かったのです。
···でも実は一度だけ夢を持った時期もありました。

それは当時、大好きな声優さんがいたのですが、その人に憧れて声優になりたいと思った事があったのです。

声優になって仕事に一生懸命になって夢中になったら、イジめられた事のつらさも忘れられるかも、とそこに唯一の希望とささやかな救いを求めたのです。

しかし声優になりたいということを母に告げると

「あんたなんかに出来るわけない!」
と全否定。
当然の結果とも言えますが···。

更に進路相談の三者面談でも声優になりたいと告げたところ、担任には
「お前がか?無理だろ・・・」
と鼻で笑われてしまったのです。

ここで怒ることも言い返すことも出来ない私は、ただ親や担任の意見を黙って受け入れるしかありませんでした。

この頃にはもう完全に母の奴隷となってしまっていて、とっくに芽生えていた自我も母の前では皆無でした。
鎖のついた手錠
こうやってせっかく夢や目標を持っても周囲の人から否定される。
私のやりたいことを誰も認めてくれない。誰も応援してくれない。私の味方がいない・・・。
と悲観的になってしまったのです。

これを機に私は「自分が何をしたいのか」ということをいくら考えても何も浮かばなくなってしまいました。

例えやりたい事があっても否定される・・・そういう目に遭うととにかくつらかったから、どんな夢や目標を持っても無駄なら最初から何も考えないようにしてしまった方が楽だからという、私なりの精神的ダメージの避け方だったのです。

こうやって私は攻撃的な人たちの存在により、本当の自分をどんどんなくしてしまったのです。

本来なら夢にあふれていたはずの思春期は絶望と虚無にまみれたものでした。

・・・ちなみに学生時代、親に当然のように言い返せたり強気な発言をする友人たちを見て「どうして親相手にそんな言い方が出来るの!?」と、とても衝撃を受けたのです。

ただ、母親と友達のように冗談を言い合いながら、気を使わずに接しているその様子はものすごく羨ましくはありました。

きっと世間ではそれが当たり前なのでしょうが···。
草原を歩く鹿の親子
こうして私の進路は母から提案された「アニメーター学科なら許す」ということで専門学校へと進学。

···しかし在学中に挫折して卒業後はアニメ―ターにはならず、一般就職に進むことにしました。

特にやりたい仕事も浮かばなかった私は、人との関わりが少なく電話応対や苦手なPC作業をしなくて済む、部品組み立て工場へ就職をすることになりました。

同じ製品だけを8時間ずっと作り続けるというこの作業を「耐えられない」と辞めていく人たちがいる中で、黙々と作業出来る環境は私にとってはまさに天職でした。
この単調で簡単な作業の繰り返しというのが私の性にとても合っていたのです。
ネジとボルト
そして社会人になってから私は1人暮らしをするようになり、そこでひとつの転機がありました。

それは「父との関係性」です。
―実は私は物心ついた時から父を避けていました。

思春期の娘なら大体そうじゃないの?と思われるかもしれませんが、そういうものではないと自分では感じています。
しかしその理由は当時はわかりませんでした。

―父は母とは正反対の人でした。
とても温厚で優しくユニークな人で職場や親戚、知人など多くの人から好かれて頼られるというまさに人望が厚い人でした。

なので父のことを悪く言う人はひとりもいなかったのです。

・・・唯一、あの母を除いては。
グラスを差し出す黒服の怪しい女性
今思うに私は物心つく遙か前の幼少期から、母から父の悪口や嫌味を聞かされていたのだと思います。

それはきっと母が一方的な被害者意識を抱えていたことと、歪んだ認知のせいです。
そもそも父が母を悪く言うことはありませんでした。
それどころか常に母を気遣っていたのですから。

こうやって良い悪いの自己判断も出来ない幼い私は、母から一方的に「お父さんがひどい」「お父さんは何もわかってくれない」と聞かされていたせいで
「おとうさんはわるいひと」
と無条件で植え付けられてしまったのでしょう。

そしてその間違った認識によって私の目には父が「忌まわしい存在」として映るようになったのです。
なので当時の私は父が大嫌いで、とにかく避けて会話をしないということを徹底していました。

そうすることで自分は母の味方だという態度を示して、より「安心安全」を確立したかったのです。
鍵とSAFETYと書かれたブロック
優しい父は娘を溺愛するタイプでしたが、私のその反応に「嫌な思いをさせたくない」という気遣いからあまり私に話しかけたり接したりはしませんでした。

それでも私の好きな動物や食べ物を前にすると話題を振ってきたりするのですが、私は拒否の態度を貫いていたのです。

・・・当時父は相当困惑したことでしょう。

何とか大好きな娘とコミュニケーションを取りたいのに気遣って避け続けていかなければならないという、このやりきれなさにどれほど悩んだのでしょう。

当時の父の気持ちを想うと本当に何と酷いことをしてしまったのか・・という申し訳なさと、どれだけつらかっただろうかという気持ちを察して胸が苦しくなります。
夕焼け空を眺めてたたずむ高齢男性
ただ、1人暮らしをして母から離れたこと、社会に出たことであの母の歪んだ常識に囚われず、洗脳状態から少しずつ解放されたことで私は何が間違っていて何が正しいのかを自分なりに認識できるようになっていったのです。

すると自然と父への嫌悪感や抵抗感もなくなっていきました。
そもそも改めて考えてみたところ、父の何が嫌いだったのかその理由が何も思い付かなかったのです。

なので父と少しずつ会話が出来るようになり、関係性も修復されました。
私と会話をしている時、父は本当によく笑っていたので私が父の顔を思い浮かべる時はいつも満面の笑みです。

・・・これもまた母とは対象的ですが。

そしてこの時期になってようやく父の偉大さ、人柄の素晴らしさを知ることが出来たのです。
そして母の理不尽さや自己中心的な部分すらも受け入れてしまえるその器の大きさに「そこまでしなくても・・・」という父を気遣う気持ちも生まれました。

するとそれに伴って今度は母への不信感がますます強まっていったのです。

自分が気に入らないとからいう身勝手な理由だけで父を悪者に仕立て上げた母が許せなくなり、今度は母を避けるようになりました。
時計と非常口を表すピクトグラム

「母から離れなければ」

―20代後半になるとこんな意識が芽生え始めました。
この頃の私は自分の生きづらさを何とかしたいと少しずつ情報や知識を得るようになっていました。

そんな中で「親からの虐待によるトラウマ」という情報を目にしたのです。
それは私の苦しみと私の子供時代の状態に当てはまるものばかりでした。

こうして私は自分が「虐待されていた」のだと初めて自覚したのです。

虐待とは殴る蹴るなどの暴力だけかと認識していたので、身体的暴力が一切なかった自分は違うと思っていました。

このように精神的な虐待というのは自分でも周囲からも気付かれにくいものです。

中には虐待をされていたことを打ち明けても「気のせいだ」「母親がそんなことする訳ないでしょ」という人も実際にいました。

・・・自分でももしかしたらもっと前から気付いていたのかもしれません。

けれど自分が虐待されていただなんて恐ろしくて認めたくなかったのかもしれません。

だから受け止めるまでに時間が掛かったという心理的な要因もあるのでしょう。
向かう合う椅子と大きな絵が飾られたおしゃれですっきりした部屋
こうしてようやく気付くことが出来た私はついに諸悪の根源である母から遠く離れる決心をしました。

すでに1人暮らしをしていたのですが、実家から歩いて15分ほどのアパートだったため母もたまにやって来てしまう距離だったのです。

娘を忌まわしく罵ったり、かと思えばやたら過保護になって構おうとしてきたりと母の奇行に振り回されるのにももううんざりでした。

なのでとにかく母の呪縛から逃れたかった私は、何があっても絶対に母が来ない場所で母が大嫌いな人の多い大都会、東京への移住を決めたのです。
雨が降る夜の街中
そして上京のために引っ越し業者や役所関係での手続きをする際、不思議ととても良い人たちばかりに担当してもらうことが出来たのです。

正直今まで人に優しくされるという経験すらあまりなかったので、この連続した優しい人たちとの出会いは私の人との関わりへの前向きな気持ちや意欲を高めるものとなりました。

何よりこれが最初の潜在意識の書き換えによる引き寄せの法則の発動だったのでしょう。
まだその法則を知らないうちから、私はちゃんと幸せになれる方向へと進んでいたのです。
たくさんの白と赤のハートの風船が飛んでいく青空
上京後、知り合いも頼る人もいない私でしたが相変わらず役所などでも優しい人たちに助けられ支えられました。

···しかし転職活動はそうはいかず、難航を極めたのです。

前職の軽作業の経験は転職で活かせるスキルではありませんでした。
そして軽作業は収入が少ないために生活が出来ないということを知り、愕然としました。

それでも人とあまり関わらずに済んで、電話応対や苦手なPCを扱わずに済む仕事でなければという条件から何が何でも工場の仕事でないと・・・という意識に囚われてこれだけに絞っていたのです。
暗いトンネルの向こうに明るい出口
いくら応募しても不採用の連続。

中には「男性しか希望していない」という事を遠回しに言われて応募すら出来ない状態もありました。

失業手当と20万ほどの貯金でギリギリの生活をしていたので本当に切羽詰まり、「なんでうまくいかない!?」という怒りと、何とかしなきゃいけないのにそれが出来ないというストレスで相当なネガティブ状態に陥り、夜中に悪夢にうなされて汗びっしょりで目が覚めたりと精神的にかなり追い詰められてしまったのです。

そこでなんとか繋ぎでもいいからという焦りから正社員だけでなくパートの仕事にも応募したところ、高時給の工場のパート採用が決まったのです。
ミシンを使う仕事をする職場
ほっとしていたのも束の間、次の問題が起きました。
なんと入社2日目にして、ある女性社員からイジメを受けるようになったのです。

お昼ごはんを彼女のいるグループのテーブルで食べるようにと主任からはそう言われていたのですが
「他にも食べるところあるからそっち行って。」
と突き放すのです。

そして仕事を教わる時もわからないことをその都度聞きに行っていたら
「質問は一気にして!忙しいんだから!」
と言うのでその通りにしたら今度は

「一気に質問持って来ないで!めんどくさい!」
などと理不尽なことを言われるのです。

···当時はこんな酷い目に遭わされる原因が何なのかまったくわからず、困り果てるだけでした。

しかしだいぶ後になって気付いた事があります。

上京したことで心機一転、「自分のキャラを変えよう!」と転職先ではポジティブな人として積極的に関わっていこうという決意を持って自分からがんがん話しかけまくっていたのです。
・・・が、しかし心理学を学んだ今なら、それが間違った行動だというのがわかります。

本来の私ではない、いわゆる陽キャを無理に演じて人に関わったことで現実でおかしな状況を招いてしまったのです。
恐らくそういう「偽物の私」が彼女に違和感を与え、その癪に障ったのでしょう。
怒った表情の猫
しかしそんなことにはまったく気付いていない当時の私は、ある「作戦」を実行しようとしていたのです。
その「作戦」は前職場にて効果を発揮したものでした。

 

―実は前職で入社直後、とあるベテランの女性社員からすごく気に入られていたことがありました。

彼女は発言力もあり、社長始め管理職たちをも言いくるめられるほどの存在でした。
しかし気が強すぎることと支配的な態度で疎ましく思う人たちも少なくありませんでした。

そんな彼女の存在を知った私は
「私、こういう人との接し方知ってる。母と同じタイプだからとにかく機嫌を取って顔色伺って気に入られればいい。そうすれば嫌な目には遭わない。」
と厄介な人への対処法はこれが正しいと信じて実行していたのです。

その後も攻撃的で支配的な人が現れると、私は母に対して取っていた方法でうまく切り抜けられると思い込んで実行してきたのです。

なので今回もそれを実行したのですが・・・なぜか相手のイジメは収りませんでした。
それどころかエスカレートする一方。
たまらず私は主任に相談しました。

主任は女性でスタイルの良い美人なのですが・・・腕に無数の自傷行為の痕があり、どこか異様な雰囲気を醸し出す人でした。
帽子を深くかぶって目を隠した美しい女性
しかも日頃から年配のパート女性への当たりが強く、時には八つ当たりのような口調で怒鳴ることもありました。

それを見ていた私は自分がその標的にならないようにと母に接するあの方法で主任の顔色を伺い、主任の言葉には例えモラル的に反していたとしても一切逆らわないようにしていたのです。

そのおかげか主任は私にはキツく当たることはありませんでした。
なので主任は味方になってくれると信じて相談したのです。

・・・ところが。

「関わらなければいいんじゃない?」
この言葉を投げつけられたのみで結局対策は何もしてくれませんでした。

しかもこれを機に主任の当てつけが私にも向くようになったのです。

仕事を教わっても1回で覚えられないと怒鳴りつけたり、初めての仕事でたった1度ミスをすると鬼の形相で叱るのです。
それこそまるで母を彷彿とさせる状態でした。

次第に私は精神的に追い詰められて身体を壊し、逃げるように転職をしたのです。
走っている黒い犬
そしてこの時、「どうして母に対するのと同じ方法をとっているのにうまくいかないんだろう。」と疑問を持つようになりました。

しかしこの先もしばらく、私はこの方法が最善と思い込んでいるのと、何より身に染みついてしまった癖によって「相手に気に入られる、相手の顔色を伺う」ということを続けていくことになるのです。

―こうして毒親に育てられた人たちは直接的な親との関わりを断ち切っても心の中から癒やしていかない限りは、呪縛が解けずに第三者とも親と同じような関わりを無意識のうちに築いてしまうのです。

その後、無事転職は出来たものの「自分を変える」というそのチャレンジに失敗した私は絶望してしまい
「やっぱり私は自分から話しかけてはいけない存在なんだ・・・。ずっとおとなしくして誰とも仲良くしないようにしていた方がいいんだ・・・。」
と自己嫌悪と自信喪失に陥ってしまったのです。
波打ち際でうつむくカラス
こうして私は結局、人を避ける状態へと戻ってしまいました。

その状態は虚しいものの、長年慣れた状態のために居心地が良く、せっかく仲良くなりたいと近寄ってきた人たちをも遠ざける振る舞いばかりしていました。

―私はきっとひとりでいる運命で誰かと一緒にいると不幸になる、そういう存在なんだと自分に言い聞かせるようになりました。

どんなに頑張っても空回りでむしろ悪い状態にしかならないというこの現象は私の絶望となって、人と関わることは人生で諦めるべき事柄なのだと悟り出したのです。

こうしてここでもまた「人間関係をネガティブな捉え方にしてしまう悪癖」という母からの呪縛によって、私は生きづらさから逃れられなくなっていました。

その人避け状態はまさに母と同じ一途を辿り始めていたのです。
大自然に囲まれた長い直線の道路
―私が上京して半年ほど経った頃のこと。
弟から驚くべき連絡を受けました。

「お父さんが救急車で運ばれた。癌かもしれない。」と。

その後、精密検査により父が悪性リンパ腫の末期癌であることが発覚。
私はすぐさま地元の病院へと向かいました。

―ICUで横たわる父は何本ものチューブに繋がれていて、全身あちこちから出血しているというなんとも痛々しい姿でした。

体格も良く丈夫だった父がまさかこんなことになるなんて・・・

私は相当なショックを受けたのですが、父を心配させたくない、私が来たことで元気になって欲しいという一心で無理やり笑顔を作って父に
「どうしたの!こんなになっちゃって!」
と明るく第一声を掛けたのです。

すると気付いた父は弱々しくも嬉しそうな笑顔で応えたのですが次の瞬間・・・

父は顔を背けて泣いてしまったのです。
父が泣いた所は生まれて初めて見ました。
手を当てて顔を隠している男性
しかしやはり男として、父親として泣き顔を見られたくなかったのか必死に隠そうとするその姿に私はなんと言ってあげたらいいいのかわからず、もう言葉に詰まってしまったのです。

しかしとにかく安心させないとというその思いと、私自身も今にも溢れだしそうな涙と感情をグッと押さえ込むように父に励ましの言葉を掛けたのです。

「お父さん!大丈夫だって!ちゃんと治るから!私、東京でも仕事見つかったし生活も出来てるからこっちは心配いらないよ!」

···実は私がパート採用されたところを2ヶ月で辞めてしまったという事を知った父は、何か良くない事があったのではとすごく気掛かりにしていたそうなのです。

「今の職場は正社員で入れたし、すごく仕事も楽しいから。」
と言うと父が笑顔を浮かべながら
「そうか。仕事は楽しいのが一番だ。」
とどことなく安堵したように言ったのです。

···この時、自分自身が命に関わる大変な状態なのに、それでも娘の私の心配をしてくれる父はやはり親なのだなと強く強く感じました。

・・・そしてこの時の父の言葉は今でも私の心に残っていて教訓としています。

「仕事は楽しいのが一番」
だからこそ私は苦になる仕事はもうしないと心に決めました。

そしてわずかな時間、家族そろって会話をしたのですが私にとってはこれが父との最後のやりとりでした···。
誰もいない病院の廊下

―その後、私が東京に戻ってから3週間後、弟から父の容態が急変したとの知らせを受けて大急ぎで東京駅に向かう電車に乗っていた時、弟から再び連絡がきました。

「お父さん、今亡くなった」

―間に合わないのはわかっていました。

東京から地元まで新幹線と電車でトータル5時間半も掛かるのです。
でも間に合って欲しい、何とかなるかもというほんのわずかな奇跡にすがっていたのです。

··しかしこの私の必死な願望を砕いたのは、なんとあの母だったのだと後から知ることになるのです。

実はこの時、医師から父の生命維持装置をどうするかの判断を母に委ねたそうなのですが、母は私の到着を待たずに切らせたそうです。

今でも信じられません。

―そして私が現地に着いた時には父はすでに棺桶の中に入れられた状態でした。

白い祭壇は質素ながらも装飾品で綺麗に飾られていましたが、正直どんな物だったかは覚えていません。
それだけ相当にショックが大きかったのです。

私はひとりで父の棺桶の前に立ち、「なんでもっと早く親孝行してあげなかったんだろう」と悔み、泣きました。

当時、上京と転職したばかりで貯金もなく、お金に余裕がなかったのでいずれ稼いで落ち着いたら父の趣味である海釣り用の高価な釣り竿を買ってプレゼントしようと思っていたのです。

それは私が長年、父に対して望まない反抗をさせられていた事への謝罪と親孝行の始まりという意味を込めたものにするつもりでした。

しかしそれが叶わず、まさかこんな形になるなんて···。
本当に、本当にこれだけは悔やまれて今だに父の遺影を見ると泣いてしまいます。

―そして通夜は家族葬にするとの母の勝手な意思で母と私と弟の3人だけで執り行うこととなりました。
天使の像がある十字架の墓地
亡くなった父の顔はあえて見ませんでした。

弟が言うにはもう別人のように痩せこけていたそうです。
なので私は父の顔を思い出す時は常に満面の笑みでいて欲しかったからこそ見ないようにしたのです。

そして通夜が始まる直前、隣にいた母が信じられない一言を放ったのです。

「お父さん、早く死ねて良かったね。」

私は耳を疑いました。
―この女、どこまで狂ってるんだ···!?

実は母には昔から希死念慮があったのです。
とにかく「早く死にたい」というのが口癖でした。

生きていても楽しいとも思えず、良いこともないからと
「あー早く死んじゃいたい。そして天国行きたい。」
とことあるごとに言うのです。

なので母の定義では「死」は究極の救いで幸せになれる状態なのです。
不気味なドクロ
けれど父はそうではありません。
父はまだまだ生きたかったんです。
無念のうちに亡くなったのですから。

それをこの女は誰もが自分と同じ価値観を持っていると思っているのです。
もちろんそんな訳はありません。

しかし母は他人を自分の基準でしか見られないのです。
ここまで認知の歪んだ人がいるのかと改めてその異常さに気付かされました。

生前の父は・・・・
家族を養うために何年も必死に働いて体調が悪くても出勤して・・・

あと1年働いたら定年退職して、そうしたら母とふたりで旅行にでも行きたいと言っていて・・・

私が上京する日、駅まで送ってくれた父が「お母さんのことは大丈夫だから」と笑いながらあんな母をも気遣っていたのに・・・

自分の理不尽なわがままを人生の中で全部受け止めてくれた亡きパートナーを目の前にして・・・
よくそんな非人道的なことが言えるなと怒りが沸き上がり、母を殴りつける寸前でした。
激しく燃える建物
・・・しかし勿論そんなことは出来ません。

母から「そう出来ないように」教育されてしまった私だから。
どんなに憎くてもその言葉を浴びせることも出来ませんでした。

私はただ小さい頃からそうしてきたように、この時もやりきれない怒りを押さえ込み、心の奥底に溜め込むしかなかったのです。

···こんな風に母を始め、様々な人からの攻撃や理不尽さを取り込んだ私の心の奥底は、もはや蠱毒のようになっていて、荒ぶる強大な攻撃性と憎悪を飼っている状態なのでした。
暗い空間に挟まれたようにたたずむ人
翌日の葬儀も家族3人だけで執り行うだけとなりました。

その後、私はすぐ東京へと戻ることになったのですが、実家から駅までタクシーで向かうことになり母がタクシー会社に連絡して手配したのですが···ここでもまた母の発狂が始まったのです。

私が何気なく、以前タクシーを手配して同じように家まで来てもらった時に運転手から「家の場所がわかりづらかった」という事を車内で言われたという話をしたのです。

それは決して運転手の嫌味などではなく、家が本当に奥路地にあるのでわかりづらかったというだけのことなのですが···それを聞いた母は
「・・・なにそれ。タクシー乗りたくないって言うの!?」
といきなり怒鳴りだしたのです。

母は「自分がわざわざ電話までして呼んであげたタクシーを私が拒絶している」という歪んだ捉え方をしていたのです。

これに対して私は言い返すというにはほど遠いような「そんなこと言ってないじゃない」という発言をすると母は不機嫌そうな態度で私から離れていきました。

こうして結局最悪な気持ちにさせられたまま、後味悪く実家を後にしたのです。
遠くまで続く線路
それから父の四十九日に備えて有休を取れるように準備をして連絡を待っていたのですが・・・

四十九日の予定日を過ぎても連絡はなく、その後「お父さんの四十九日、終わったから」という弟からのメッセージが届いたのです。

なぜ呼んでくれなかったのか聞くと
「交通費がかかるだろうから来なくていいとお母さんが言っていた。」
というのです。

確かに交通費は相当掛かりますが、もちろんその準備もしていました。

この「交通費がかかるから」というのは母が私に来させないための「悪気のないように見せ掛けた理由で相手の行動をコントロールする」というものだというのがすぐわかりました。

こうやって母は自分は「気遣ってやってるんだ」という素振りを見せつけて、自分にとって都合のいい理由と状況を相手に押し付けるのです。
これこそが母の常套手段なのです。

しかしこの時から私が母に会いたくないように母も私に会いたくない状態になっていたようでした。
駐停車禁止の標識
しかし、しばらく経ってそんな母からメールが届いたのです。

「お父さんの病院代が高く付いて生活費がないから少しでいいから毎月仕送りをして欲しい」
というのです。

···実は少し前に葬儀代などで大変だろうからと私がなけなしの貯金20万から10万をあげたのですがどうやらそれに味をしめたようなのです。

自分は働けるくせに人と関わりたくないのと、仕事を覚えたくないという理由からいつも体調が悪いだのと弱々しいフリをしたり、唯一内職はしていたもののその仕事がなくなったら次を探すこともせず父や弟に生活費を頼ってばかりいたので「自分で稼ぐ」という選択肢はまったくなく、私に金銭を要求してきたのです。
無数の金色のコイン
こんな時だけ、なんて調子のいいことを。
そう思ってもちろん1円も出しませんでした。

「私も生活が苦しいから」と断ると「わかった」とひとことの返信が来てそれっきり金銭の要求はしてきませんでした。
ここでお金を出したら母は私を金づるとして利用するに決まっているから。

もしこれが立派な母親で育ててもらったことへの恩返しをしたいと思えるなら私も喜んで仕送りしたでしょうが、あの毒親にそんな恩はありません。

母が生活に困ろうが私には関係ありません。
そもそも私は1人暮らしをしていても親から金銭をもらったことはなく、全部自分の稼ぎだけで生活していましたから。
窓際の植物と本が置かれたデスクと椅子
それから父の1周期はもちろん、一切の法事に呼ばれず、一度も参加することが出来ませんでした。

そして母と連絡を取る必要もなくなり、音信不通の状態で10年ほど経つこととなるのです。
海から流れ着いた紙が入った瓶
望みどおり、母との縁は完全に切れたような状態となったおかげか、私の精神状態は落ち着いてきたために自分の人生をちゃんと生きたいという意識が生まれました。

母によって形成不足にさせられた人間らしさや不適切な人とのつながりを改善して、良い人間関係を築くために様々な心理学の知識や情報を身に付け始めたのです。

そこで次々と私の中にあるトラウマや障害を発見し、向き合うこととなりました。
開かれた本とメモ帳とペン

・適切な親子関係が築けなかったことによる「愛着障害」
・繊細な感性を持つ「HSP」
・潜在意識の書き換えの必要性
・虐待の世代間連鎖
・認知の歪み
・子供時代の傷を癒やせないまま大人になった「アダルトチルドレン」
・自己肯定感の回復
・奥底に閉じ込められた「インナーチャイルド」
・・・・など

これら数々の要因が複雑に絡み合って、私の心苦しさや生きづらさとなってしまっていたことにようやく気付くことが出来たのです。

こんな状態だから簡単にトラウマを乗り越えられなくて当然です。
気付きを得てもトラウマは根深く、回復するのになかなか時間が掛かりました。

母から受けたのはしつけという名の洗脳であるのだから。
三体の操り人形
変わりたい、幸せな人生にしたい、その焦りから先走ってしまって中途半端な引き寄せの法則やスピリチュアルに惑わされたこともありました。

それでも軌道修正し、何とか自己肯定感を取り戻して潜在意識の書き換えを正しく行うことが出来るようになったのです。

そしてついに私がトラウマを克服出来たことを実感できる出来事がありました。

当時勤めていた職場にある中年女性がいたのですが、かなり支配的で自己中心的なので悪い意味で有名な人でした。

最初はとても優しく接してきていたのですが、機嫌が悪いと次第に仕事絡みでの八つ当たりや嫌味を言うようになってきたのです。

「またこの展開・・・?」

潜在意識の書き換えをしたのになぜこんな人を引き寄せたのか、やはりまだ成功していないのかと心が折れそうになったのです。

そして昔の私ならここで相手のご機嫌取りをして言いなりになってしまうところでしたが、今回は今までとは明らかに違う思考が生まれたのです。
木漏れ日の森
「私は仕事もちゃんとこなしているし何も悪くない。その人が勝手に機嫌が悪くなっているだけでこれは私の問題ではない。」
このように捉えたのです。

そして決してその女性にへりくだったり怯えたりする振る舞いはせず、毅然とした態度で接しました。

ただ前のように親しく話すようなことはもうしませんでした。
だってその人は明らかに不適切なのだから。
どんな形であれ関われば私に良くない影響をもたらすのだから。

今までなら攻撃を受けたら何ヶ月も引きずり自己嫌悪に陥っていた私が、まったく落ち込みも傷付きもしなかったのです。

恐怖もなく落ち着いた精神状態で冷静に物事を客観的に見られて判断が出来たのです。

・・・すると不思議なことに、その女性の方が私の顔色を伺うような振る舞いをしてきたのです。

これが「試し行為」という、相手の反応を見る心理行動だということもすぐわかりました。
なので私はその行為も相手にせず、淡々と仕事の対応をするだけにとどめたのです。
スマホとメモ帳とペンとキーボードとめがねがあるデスク
もちろんここでいい気になってマウントを取るだとか嫌がらせを受けた仕返しだとかを企ててはいけません。
それでは自分が加害者になってしまうのだから。

私は自分の心が穏やかでありたいので争いごとや攻撃はそもそも嫌いなのです。
だから心を荒々しくさせる人は大嫌いなのです。

―結果、その女性は私に理不尽な言動をしてこなくなりました。
こうして私は自己犠牲ではない、本当の自己防御法を身に付けたのです。
キャンドルを覆う両手
やがて人間関係も癒やされ、友人も出来て理想の男性との出会いもあり、この頃の私は本当に穏やかな凪の心で過ごすことが出来ていました。
そして結婚という奇跡まで手にしたのです。

私は母のような存在にはなりたくなかったのと、夫にも嫌な思いをさせたくないという気持ちから言いたいことには感情を乗せずに冷静に伝えるということを心がけました。

もしイライラしている状態であるならその時はあえて距離を置き、接しないようにするのです。
そして冷静に要件だけを伝えれば相手にも正しく本意が伝わり、意見をお互いに出し合って解決する方向へと進めるという穏やかなやりとりをしています。

なのでケンカというものはしていません。
夕日の海辺を手を繋いで歩く男女
人間であればどんなに気が合っても意見や価値観の相違というものは出てきます。
まして結婚して同じ屋根の下に住むのであれば尚更。
だからこそ擦り合わせるということが必要となるのです。

攻撃して支配して言うことを聞かせるのではありません。
そんなものはパートナーや家族ではありません。

母が見事に反面教師となり、私はおかげでこれだけの気付きを得ることが出来ました。
でも母に感謝などはしていません。
ひもを切ろうとしているはさみ

ところが。
これで終わりではありませんでした。

ここでまさかの状況に陥ることとなったのです。

結婚後は彼の実家に住むことになったのですが、そこには彼の母も住んでおり、いわゆる姑との同居になりました。

本来は結婚相手の親との同居はNGだったのですが・・・なんとかなるだろうという私の妥協がとんでもない状況を招いてしまうのです。
山積みになったどんぐりと殻を割って中身が出ているどんぐり
実は姑は初期の認知症だったのです。

普段は何もしてこないのですが発症すると嫌味を言われたり、姑が自分で置き忘れた物を私が隠したのだと犯人にさせられたりと意味不明な発言や理不尽な嫌がらせを受けてしまっていたのです。

そしてあれこれ要件を言われてその通りにしても「私はそんなこと言っていない」と文句を言われたりと、もう対処するにも限界でした。

基本的に人が嫌がっていることを理解することが出来なくなっているようで、いくら説得しようが怒ろうがまったく理解出来ない状態なのです。

そして引っ越しから2週間ほど経った時のこと。
突然部屋に押しかけてきた姑が
「税金の支払いで今月出費が多いからご祝儀を返して!」
と笑顔で詰め寄ってきたのです。

それも「あなた、この前返してくれるって言ったでしょ?」などとまったくの妄想で話しをするのです。
意味がわからない、そんなことは一言も言っていないというと「お金をもらう時だけいい顔して!」と言うのです・・・。

いくら説得しても引かない姑に限界を感じてついに私は家を飛び出したのです。
街中を走る女性の後ろ姿
そして近くの公園で夫が帰宅するまで待つことにしたのですが・・・ふと母にこの事を相談してみようかと思い立ったのです。

こんな時に母を頼るなんて、と我ながら情けなくも感じましたが···。

しかし10年も経っているのだし、もしかしたら母も変わっているかもしれないという淡い期待を抱いていたのです。

そして電話をして事情を話すと
「さっさと離婚しなさい」
・・・これだけでした。
やはりまったく話しになりません。

そして「もしかしたら実家に逃げることもあるかも」という話しをしたところ

「・・・交通費掛かるのに?」

交通費・・・また交通費・・・・・
この人はこれしか言えないのか。

実の娘が悩んでいても味方になるどころか逃げ場所すらも奪おうとしている。
やっぱりこの女は親じゃない。
呆然と立ち尽くす猫耳のダンボー
―何度も何度も何度も、幼いころから頭の中を駆け巡った言葉。

でもどこか心の奥底ではいつも期待してしまっていたのです。

しかしいくら年月が経っても簡単に人の性格は変わらない。それが真性であるなら尚更。

結局この日、仕事終わりの夫が車で迎えに来てくれて車内で姑とのやりとりをすべて話すと夫が何度も謝罪してくれました。

そして夫の方から説得してくれる事と、二度とそういう話しを私に振らないようにキツく言っておくからという事で家へと戻ることになったのです。

このように夫は常に私の味方をしてくれて、私が姑から嫌がらせを受けるたびに庇ってくれて姑にキツく注意してくれます。
しかし当の姑は怒られてもまったく応えていませんが・・・。

しかもある時には朝の出勤前にも関わらず姑の件で泣いて訴える私の話をじっくり聞いてくれたのです。
「もう仕事行っていいよ、遅れるから」と言っても「こっちの方が心配だから」と私を優先してくれるのが本当に嬉しかったです。

そして友人たちにも姑との関係を話したところ
「今度家出する時はいつでも連絡して!すぐ車で迎えにいくから!」
と言ってくれたのです。
本当に心の支えになりました。

そして私は気付いたのです。
花を抱えた熊のぬいぐるみ
―あぁ、そっか。
母なんかいなくても私にはこんなに支えて味方になってくれる人たちがいるんだから。
その人たちと接していけば私が得たかった人のぬくもりとか愛情とか優しさをちゃんと感じられるんだ―。

愛着障害だから親から与えられなければならないと思い込んでいた部分もありました。
しかしそうじゃなくても大丈夫なのだとようやく気付けたのです。

そしてやっと、この意識に辿り着けたのです。

「お母さんはもういらない。」

飛び立つ助走をするカンムリカイツブリ

私の起こした奇跡の経緯を知りたい方はこちらから↓

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事