「・・・病理検査の結果ですが悪性腫瘍に変異していました。いわゆる癌です。」

その日、私は3か月ごとの定期検診で病院を訪れていました。
通院3年目を迎えた6月の出来事でした。

拡大された水面

私は幼い頃から体は強いわけではなかったものの、大病に罹ったことも手術や入院をしたこともありませんでした。
病気らしい病気といえば中学時代のイジメや母からの精神的虐待のストレスによる胃潰瘍程度。それも軽いものだったために飲み薬だけで完治してしまいました。

20代になり社会人になってからも保険にも入らず「もし大病になったら潔く死ねばいい。」そんな思考でいたのです。

当時の私はあまりの生きづらさから「生きること」に希望を見出せず、自殺願望こそなかったものの何だったら今すぐ死んでもいいという意識に囚われていました。
そしてそういうネガティブ思考の自分をむしろ淡白でカッコいいと酔いしれてすらいたのです。

松の木で翼を広げるオオタカの幼鳥

そして年月が過ぎ、36歳の時にその転機は突然訪れました。

休日の楽しみのひとつだったひとりカラオケ。私はいつも通りにフリータイムでのびのびと楽しんでいました。
そして歌っている最中のこと。

 
「ガリっ」

···舌の側面を噛んでしまったのです。
テンションは多少落ちたものの気にせず歌い続けました。
そして噛んだ箇所は傷となりやがて口内炎となりました。

こんなことは今まで数え切れないくらいあったこと。そして放っておいても自然と治るもの。
なので痛みは多少あったもののこれも数日の我慢だと思い、まったく気にせず過ごしていました。

奥の光の中にぼんやり浮かぶレンゲショウマ

―ところが。

1週間経ち、2週間経っても口内炎はまったく治らずそれどころか痛みが増すばかり。
たまらずドラッグストアで口内炎の塗り薬を購入して使用するも、まったく治る気配がありませんでした。

「何かおかしい」
心のどこかでそう思い始めていました。
けれども核心に触れるのを恐れて、そのままごまかしながら過ごしているうちに1か月も経ってしまいました。
この頃には痛みも酷くなり、食事をするのもますますつらくなってしまったのです。
 
そんなある時、たまたま観ていたテレビで女優の堀ちえみさんが舌癌を発症した経緯の再現VTRが放送されていて、思わず釘付けになりました。
なぜならその初期症状があまりに私の状態と酷似していたからです。

 

普段なるべく病院のお世話にならないようにしていた私ですがさすがにこの時ばかりは不安になり、すぐに近くの口腔外科のある歯医者へと駆け込みました。
すると診察をした歯科医から「うちでは判断出来かねますので···」と紹介状を出されたのです。

2018年3月、事態は思わぬシナリオへと進んでしまいました。

赤く光る水晶や和傘やほおずきのモチーフ

それからすぐ2日後に医療センターへと行き、診察をしたあとにまずは簡易検査を受けることになりました。
その結果は・・・
 
 

 


「陰性」

ただしこの簡易検査では1~5段階までの状態しかわからないのではっきりした病名までは判明せず、私の患部の状態は「3」であるということしかわかりませんでした。
(1が完全な陰性で、5が完全な陽性)

そこで担当医と相談をしてより詳しい病名を知るために病理検査を受けたのです。

それは舌の患部を1㎜ほどメスで切り取るというもの。そして傷口を縫合し2週間ほどで抜糸となります。
···ちなみに術後に麻酔が切れるととんでもない痛みに襲われます。
舌はかなり敏感な器官。ただの口内炎ですら相当痛むのだから当然です。
 
そして検査結果の日を迎えました。

ライトアップされた木の枝と水晶の展示物

病名は「白板症」というものでした。
これは陰性の腫瘍で特に問題はなく、患部は一生白く残るもののそのまま放置しておくのが一般的だと言われました。

ちなみに患部の痛みに関しては「食いしばり」の癖によって、歯が当たって傷を作ってしまうせいだろうという事でマウスピースを作ってもらいました。
それを装着していたら数日後に痛みは治まり事なきを得ました。
この時は本当にほっとしました。

しかし担当医から
「・・・ただ白板症は3%程度の確率で癌化することもありますのでこれから5年間、定期検診として3か月ごとに経過観察させてください。」
と言われ、そこから長い通院期間がスタートしたのです。

光るほおずきのモチーフ

ちなみに私生活ではこの出来事からしばらくして勤務先が事業所閉鎖により、私は転職を余儀なくされました。

転職先は金属部品の加工業。未経験の仕事で理数系が苦手な私は加工図面を覚えるのに大苦戦。
ボール盤や旋盤など危険な機械の扱いや力のいる作業にも四苦八苦していました。

そんな中、一番のストレスが私の作業場の後ろにいる中年男性の飴をなめたり囓る音でした。
「ぺちゃぺちゃ」「がりがり」という音がとんでもなく神経を逆撫でするのです。
感覚過敏でもある私には本当に耐え難い苦痛で、文字通り歯を食いしばりながら毎日耐えるしかありませんでした。

・・・後から考えるとこのストレス過多の環境と力のいる作業、不快音に耐えるためにしていた無意識の「食いしばり」が元凶となってしまったのだと思います。

ちなみにマウスピースは装着すると歯ぐきが痛くなるためにこの頃にはもう装着するのをやめてしまっていました。

紫色に染まる空

通院してから3年目のこと。
白板症の患部に再び痛みが走るようになったのです。
それは日々酷くなり、食事どころか水を飲む時にまで痛み、寝ている時ですらもズキズキとした痛みで目が覚めてしまうレベルでした。

定期検診時にその症状を告げると再び病理検査を受ける事になりました。
けれどどうせまた陰性だろうと何ら不安は感じていませんでした。

ヤマドリの上半身

そして2週間後、抜糸と検査結果を聞くために病院へ。

検診の日はいつも有休を使っていたので午前中の病院のあとは自由時間。
ランチや買い物をしたりと平日のお休みを楽しむ日でもありワクワクしていました。

この日ももちろんそのつもりでいて、予定では「抜糸してすっきりして、陰性の結果を聞いてほっとした後で都心のカフェランチ」という計画を立てていたのでいつも以上におしゃれをして行ったのです。

まずは抜糸が行われ難なく終わりました。
そしていつもならこの後に検査結果を教えてもらうのですが、担当医から
「実は検査結果がまだ出ていないので待合室で少しお待ちください。」
と言われたのです。これは前例のないことでした。

ただこの時期はコロナ発生年だったため「病院も忙しくて大変だな・・・」程度に思いながら何の疑いもなく待合室で待機していました。

すると10分ほどすると担当医がやって来て
「いま診察室がいっぱいなのでちょっと別室でお話しさせてください。」
と言われたのですが、この段階でも私は何の不安も持たず言われるがまま別室へと移動しました。

ノートパソコンとペンと紙の置かれたデスク

そして小さな個室で担当医と向き合う形で座るとカルテをテーブルに広げて静かに語り出しました。

 
 
 
 

「・・・病理検査の結果ですが、悪性腫瘍に変異していました。いわゆる癌です。」

[癌]というフレーズをこんなにもすんなり受け入れられるのかというくらい、自分でもびっくりするほどすぐに状況を呑み込めたのです。

よくドラマなどで癌宣告を受けると頭が真っ白になるという表現を聞くけれど、それがまったくなく「そっか、わたし癌なんだ。」とむしろとても冷静でいられたのです。

そしてその直後に頭に浮かんだのが「お金、どうしよう。」でした。
手術、入院、その後の治療っていくら掛かるの?
抗がん剤や放射線治療などもするのだろうか・・・あ、じゃあ髪の毛とか抜けちゃうんじゃ・・・!ウィッグって高いんだよね!?

―そんな方向性の心配事が脳内を駆け巡っていました。
そしてこの時ばかりは保険に入っていなかったことを本当に悔やみました。
・・・本来なら心配すべきはこんなことではないのでしょうけれど。

二輪のシャガ

そして担当医は続けて淡々と、でも丁寧に優しく今後の経緯の説明を始めました。

まず本当に癌かどうか再確認をする、そしてその大きさや転移箇所について詳しく調べるためにCT、MRI、PETーCTで各検査を受けてもらうこと。
そして舌癌は進行が早いうえに、私が38歳という癌発症としては年齢が若いこともあり、それもまた進行を早める危険性があるとのことですぐにでも対処しなければならないとのこと。

すべての検査後にどういった手術をしていくかを決めていきましょう、ということになりました。

そして検査の予約をすぐさま取り、2週間で立て続けに様々な検査を受けて最終診断の結果を聞く日を迎えました。

水晶玉で反転して映る妖怪の姿

2020年6月。約3㎜の悪性腫瘍が確認され「舌癌」と正式に診断されました。
ただ幸いなことにステージは初期で転移もないとのことでした。

すると治療方法として癌患部の切除をするか、患部を切り取らずに残した状態で抗がん剤や放射線による治療にするかを問われました。
医師としては切除を勧めるとのこと。

後者は癌を完全になくすことは出来ないもので、まだ若い人の場合は多少でも癌を残すとリスクになってしまうというのが理由でした。
そして切除では完全に取り除けるけれど、舌の一部を欠損してしまうので後遺症として言語障害が出る可能性もあるというリスクを告げられたのです。

しかしこの時、私はまったく迷わず「切除でお願いします。」と即答。
すると担当医はすぐに手術の経緯や入院の手続き等の説明を始め、山のような必要書類や入院案内、説明書などを渡されました。
 
帰宅後は渡された書類の必要事項を記入したり、説明書のすべてに目を通したりという作業に追われ、更に入院に必要な物の買い出しから荷造りの準備まですべてひとりでこなしました。

これらの作業に追われていたせいで「癌である」という実感や悲観に暮れる時間はまったくありませんでした。

雨の滴のついた彼岸花

そして翌月、手術前の入院のため病院へ。
同日入院する人たちは家族が付き添っていたので大きな荷物を運んでもらっていたのですが、私はひとりでキャリーケースと大きなトートバッグを抱えており「患者」らしさを感じさせないパワフルな雰囲気を醸し出していたと思います。

ちなみに病室に関しては私の性格上、大部屋はどうしても無理なので個室を選択。差額ベッド代の1日16,000円はかなり痛かったものの、他人と相部屋になる方がよほどしんどい事でしたから。

広い病室に入ると落ち着く間もなく、入れ替わり立ち替わりで各科の医師から説明を受けました。
手術前の経緯から術後の経緯、退院の条件など最終確認の打ち合わせとなりました。

病室のベッド

そして翌日、17時に予定通り手術開始。

「全身麻酔をかけますので、眠くなったらそのまま寝ちゃって大丈夫ですから。」
という言葉を掛けられたのですが···

・・・・
 
・・・・・・・

 

眠くならない・・・?

―いや待って!
なんか息が・・・呼吸が出来ないんですけど!?聞いてた話と違う!!!

めちゃくちゃ焦ってこれは何かのトラブルによる緊急事態だ!と思った私は息が出来ない事をなんとか伝えようと「すみません!」と言おうとしたその時、

 
 

無事、意識がなくなりました。

瀕死のアマビエの展示物

______________________

 

「・・月狼さん、聞こえますか?終わりましたよ。」

この声が聞こえたのは意識がなくなってから体感1秒くらいでした。

なので私としては
「え?そんな早く終わるわけないじゃない。信じられないからまだ目を開けないでおこう。」
と意識はあるのに目を開けずにいたのです。
このあと2、3回の呼び掛けをしてもらってようやく(渋々)目を開けたのです。
···何と厄介な疑心暗鬼患者なのでしょう。

実際手術は約2時間ほどで終わりました。
癌患部3㎜から左右と奥行きをそれぞれ1㎝ずつ、計3㎝ほど舌の左側面が切り取られていました。
術後すぐに鏡で確認すると舌はえげつないほど赤黒くなって見るも無惨な状態でした。

赤い不気味な満月

―そして先の見えない入院生活がスタートしました。
事前の説明で退院の条件は「お粥がひとりで食べられるようになる」ことでした。

術後しばらくは鼻からの流動食となり、落ち着いたらスープ状の食事から始まって少しずつ形状のあるものへとメニューが移行するという流れです。

ただ、舌の機能がどれほどの状態かは食事をしてみないとわからず、もし自力で食事が出来ないのであればリハビリが必要のため入院は長引くとのことで、当初の目安としては入院は1か月ほどと伝えられていました。

しかし差額ベッド代の問題がどうしてもついて回ります。
1か月も入院していたらとんでもない金額になってしまう・・・。貯金が70万ほどしかなかったので長引かせる訳にはいかなかったのです。

手術の翌日からベッドの上で入院費用の見込み計算に追われていました。
コロナのためお見舞いは厳禁でしたが当時彼氏も友達もいなかった私を見舞う人は誰もおらず、ただただ時間を持て余していたのでちょうど良かったのかもしれません。

電卓とペン

ちなみに家族はというと・・・実家にいる母と弟には連絡したものの母は
「家がシロアリの被害に遭って駆除と修理にお金がかかるから東京に行く費用なんてない」だそうです。

実の娘が癌になったというのにこの発言、まさに毒親としか言いようがありません。
そもそも母が東京嫌いであるからこそ上京してきたので最初からこうなることはわかっていました。

それでも・・やはりどこかで期待していた部分もあったのでしょう。
けれどこの件で完全に母を親と思わない決意を固めました。

このような非情な母に育てられたせいで私の「人避け人嫌い」はなかなかに根深いものでした。
10代の荒れたメンタル時に比べたらいくらかは改善はしたものの、この時の私はまだ人と関わる事に抵抗があった時期でした。

膝を抱えている天使の像

ところが入院していたこの病院の看護師さんたちは、とにかく優しい方々ばかりでずいぶんと心癒やされたのです。

食事中に私がむせていた時に駆け寄って背中をさすってもらった時は人生で初めての出来事だったので「こんなにも優しくしてくれる人もいるんだ」と本当に感動しました。

他にも同年代で未婚の看護師さんと「この歳になると周囲からも結婚しないの?とか逆に言われなくなって気が楽よねー」と笑い合ったり、暇つぶしのスクラッチアートをやっていた時も「何それすごい!完成したら見せてね!」と気さくに声をかけてくれた人もいました。

若い俳優さんの訃報のニュースを見ていた時にやってきた看護師さんと「なんでこんなにいい人がね・・・ショックだよね・・・」と悲しみを共感しあったりという経験がなんだかとても充実して幸せに感じられたのです。

「そんなことで?」と思う人もいるかもしれませんが、私にとってはとても新鮮な経験だったのです。
この時に生まれて初めて「私ひとりの命を救うためにこれだけの人たちに助けてもらったんだ」という実感と感謝と自分の命の尊さを深々と感じました。

・・・かつていつ死んでもいいとすら思っていた私にとっては大きな転機となった瞬間でした。

無価値にしか思えなった私の命は沢山の人と関わり救われたことで「重み」を感じ、その価値にようやく気付かされたのです。
癌になったのはもしかしたら私が自分の命と向き合うための教えだったのかもしれないと思っています。

翼を広げて飛ぶミサゴ

そして退院の条件である食事に関してですが、流動食は4日ほどで終わりました。
そして術後初のついに口からの食事を試す時がやってきました。

メニューはすべて液状。まさしく「飲める野菜」と「飲めるお米」。
多少緊張感はあったもののこのメニューは難なくクリア出来ました。

すると翌日はほんの少しだけとろみのついた状態のメニューになりましたがそれも問題なくクリア。
更に翌日は少しだけ柔らかい固形の状態のものが混じったものが出されましたが「噛んで飲み込む」という動作に問題はないように感じたので食事に不安はなくなりました。

舌の機能が落ちるとこの飲み込む力が弱くなってしまうそうです。
けれども早々と自信を得た私はあっという間に退院の条件である「お粥を食べる」ことに成功しました。

そこで何が何でも早く退院しなければと思っていた私はさりげなく「退院ってまだですかね?」と訊ねると「じゃあ明日、退院しましょうか」と何ともあっさり決まったのです。

そして入院最終日の夜の食事。最後のメニューについてきたデザートは・・・

 

半分だけ皮を剥いたバナナ

バナナ。

 
実は私はバナナが大嫌い。しかも丸々一本のバナナ。これはもはや致死量です。
「出された食事を残すと失礼」という教育を受けてきた身として、ましてや病院食ならすべて計算されたメニューなのだから残すわけにはいかないと思っていたので私的に完食は絶対でした。
 
・・・かつて小学生の頃、友人宅でごはんをごちそうになった時に食後のデザートとして出されたバナナと黄桃(これも食べられない)のヨーグルトあえに凍り付き、それでも残すわけにはいかないとオエっとなりながら、涙を浮かべながら無理やり必死に食べたあの日が走馬灯としてよみがえりました。

そして私はあの頃と同じようにオエっとなりながら、涙を浮かべながらも何とか最後の晩餐を完食したのです。

最後の晩餐の絵

そして入院9日目にして早々に無事退院することが出来ました。

ちなみに舌の機能としては7割ほどに落ちると言われていましたが、多少しゃべりにくい時はあるものの正直生活するに困る後遺症はありません。
食事も問題なく出来ています。

模様の光を放つライト

そして退院から3ヶ月後の10月。

世間ではコロナにより制限していた人の動きを緩和して地域を活性化させるために旅行先での割引サービスが実施されていました。
患部もすっかり落ち着いた私もそれを利用してある場所へと向かいました。

東北新幹線ハヤブサ

場所は青森県弘前市。私の地元です。
けれど実家には寄らず、弘前駅前のホテルに宿泊。もちろん母と弟にも帰省は告げませんでした。
この帰省にはある目的がありました。
それは9年前に亡くなった父のお墓参りです。

平日の誰もいない広い広い墓地で私は父の墓前に立っていました。
「お父さん。私は大丈夫だったよ。癌になったけど死ななかったよ。」
 

 

・・・9年前、父は悪性リンパ腫で亡くなりました。
かかりつけ医から夏風邪と誤診されていたせいで発見が遅れ、国立病院にて発覚したときはもう末期状態。
ICUに即入るも3週間で亡くなりました。
ちなみに父方の祖父も白血病で亡くなっています。

癌は遺伝するといいますが、3世代にも渡ってしまえば疑いようもないです。
でも、私は無事生きています。
それを父にどうしても伝えたかったのです。

紅葉の岩木山

―それから4年。
癌手術後の定期検診の通院は5年必要です。
癌の再発、転移は2年以内がもっとも確率が高いと言われていますがそれは無事に越えました。

そして5年経てば再発の心配はほぼなくなると言われています。
私の場合、2025年7月で通院は終わりとなる予定です。

少し前に一度患部に痛みがあったのでまた病理検査はしましたが何も問題はありませんでした。
やはり食いしばりによる傷によるもののようです。

癌は同じ箇所を何度も傷付け回復するというのを繰り返していると細胞にバグが発生して癌細胞となってしまうのです。
なので今は食いしばりに気をつけて意識して噛み締めをしないように心がけ、ストレスにも気をつけるようにしています。

下に潜る二頭のイルカ

・・・まさか自分が癌になるだなんて想像もしていませんでした。
しかもひとりカラオケで舌を噛んだことがきっかけになるだなんて。

なので日常の中には良くも悪くも様々な可能性があるということです。

そしてもし、1か月経っても治らない口内炎があるならすぐに口腔外科へ行ってください。
診断結果が怖いからと逃げていたらそれこそ取り返しのつかないことになります。

舌癌の死亡率はステージ4で50%です。
何より頸部リンパ節に転移すると急速に進行してしまいます。
ちなみに切除するならその割合も変わってきます。

堀ちえみさんはステージ4で舌の6割を切除したために会話や食事のリハビリに相当苦労されたそうです。

餌を食べようとするレッサーパンダ

これを聞くとますます怯えてさせてしまうかもしれませんが、病院に行って「何事もない」という確認をすることも必要です。
もし発覚しても初期なら癌でもちゃんと完治できます。

だって私は癌になっても手術して入院してたった9日で退院出来たのですから。

水面から飛び立つユリカモメ

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