波打ち際と空

私の頭の中はいつも「情報」が湧き水の如く、こんこんと溢れているのです。

その「情報」とは感覚的だったり疑問だったり分析だったり理論的だったり・・・
とめどない情報の流動を私は不快だと思ったことはありません。
幼い頃から当然のことでしたから。

むしろそれらと戯れること、つまりは思考したり感じ取ることが楽しいからです。
小さなたくさんのシャボン玉
しかしこれを読んでくださっているあなたの頭の中を私は知りません。
私のように常にこぼれ落ちるほどの情報に満たされた脳内ではないのでしょうか。
その辺りも気になるところです。

―ほら、こうやって私の頭の中にまたひとつ楽しそうな疑問がやって来ました。

こんな私のこの性質が何なのか、なぜこんな捉え方をするのか興味がありませんか?
もしくは私と似たような方がいませんか?

それでは早速「私の正体」を明かしていきたいと思います。

風にそよぐカーテン
 
[HSP(Highly Sensitive Person)]

この言葉をご存じでしょうか?
いまやネットや書籍などでだいぶ出回っているので見聞きしたことがあるという方は少なくないかもしれません。

これはいわゆる「繊細な人」のことです。
つぼみから開きかけの白い花
私がHSPを自覚したのは4年前のこと。自分の生きづらさやあまりに不遇続きの原因追及に躍起になっていた時のことでした。
自己肯定感が低いせい?それとも発達障害が・・?
次々現れる原因予備軍に私は翻弄されていました。

その時に辿り着いた原因のひとつがこのHSPです。
当時は今ほど浸透しておらず、私も初耳だったのでどんなものなのかと必死に調べました。
そこでまずは私が学んだHSPについて私の言葉で解説していきます。
木の上から見下ろすフクロウ
まずHSPとは精神疾患や発達障害ではありません。
昔に比べたら浸透して認知されているかもしれませんが、これは生まれ持った「性質」なのです。
なので治療することは不可能です。病気ではないのですから。

例えば短気な性質の人が短気を治療することは出来ません。
せっかちだったり優柔不断も性質であるなら同様です。

もっと極端に言えば魚は水中で生きる「性質」なので地上では生きていけません。
逆に人間は地上で生きる「性質」なので、身ひとつで魚のように水中で生きることは出来ません。
青い池と沢山の鯉
ちなみに「性格」は後天性のものであり、環境や人間関係などから形成されたものなので変えることは可能です。
トラウマやネガティブ思考も環境を通じて身についたのであれば改善することは可能です。

しかしHSPの捉え方は誤解が多く、ネガティブなイメージを持つ人も少なくないようです。
仕事の覚えは悪いし人付き合いも良くないなど、ここだけをピックアップされて印象が悪くなってしまったのでしょう。

普段から肩身の狭い思いをしてきて、その生き苦しさの原因を追求してきてやっとHSPという性質が原因だとわかったのに、偏見を持たれるような要素になってしまったのですから、ただでさえ自己卑下しがちなHSPの人たちは絶望したことでしょう。

「自分の不甲斐なさは生まれつきで治す事も出来ないのか。自分は一生苦しいままで生きなければならないのか。」と。
有刺鉄線が巻き付いた電柱
―実はこれは私が最初に持った感想です。

自分はこんな厄介な性質を抱えて生きていかなければならないのか、普通に生きている人が羨ましい・・・と。
こんな余計な感覚を持っているせいでどれだけ苦しめられてきたのかと自分の性質を呪いました。
これさえなければ幸せに生きられたのにと。

私がここまでHSPにネガティブしか見出せなかったのは、自身がもっとも悩みを抱えていた「ある経験」が見事にHSPの特性に当てはまったからです。
それは社会人になり、仕事をするようになってから毎回私を苦しめた要素でした。
―それでも仕事はしなければならない。この状況下で私は心身を削るほどの努力に疲れ果てていました。

まずはこの体験談からお話ししていこうと思います。
風にたてがみがなびく馬の横顔
私は転職を6回経験しているのですが、新しい職場や新しい仕事を教わる時にはいつも私特有の問題点が立ちはだかるのです。

それは
 
「人一倍、仕事覚えが悪い」という点です。

記憶力は決して悪くありません。
そして仕事に対する姿勢ももちろん真面目で、しかも完璧主義者なのでむしろ「しっかりと覚えよう」という意欲は当然ありました。
メモも毎回取っていました。

それなのにも関わらず、です。
万年筆とノート
ちなみにどういう点が良くないのかという具体的な部分はわかっていました。

まず、メモを取る時のこと。
そもそも私はマルチタスクが苦手なのです。
なのでこの「聞きながら書く」というのが本当に難しいのです。

しっかり聞いていると書くのが追いつかず、ちゃんと書かなきゃと思うと説明が聞き取れなくなり・・・結局メモは字もぐちゃぐちゃで自分でも読み取れないものとなり、説明も聞き逃していたせいでほとんど把握出来ない状態になってしまうのです。
それなので電話応対などはもう絶望的でした。

初めてアルバイトした所で電話応対をさせられたのですが、こんな状態なので情報を書き取れず、要件も正しく伝えられなかったために怒られたことで電話応対がトラウマとなってしまったのです。

なのでそれ以降は電話応対がある仕事は避けて来ました。
(ただしマルチタスクが苦手というのはHSPの特性とは一概には言えないようです。HSPにもマルチタスクが普通に出来る人はいます。)
スマホを耳に当てている男性
「その都度、相手に聞き返せばいいのでは?」
そう思った方もいるでしょう。
 
・・・それがそう簡単には出来ない理由があるのです。

まず、「聞くことは相手に迷惑を掛けること」という母の歪んだ解釈をコピーしてしまっていたので「わからないことを聞く」というのがいけない事だと誤認していたため、非常に抵抗感があって難しかったのです。

しかも説明を受けている段階で、私の頭の中にはこんな思考が溢れ出ているのです。

「聞きたい事があるけれど・・・こんな知ってて当然のことを聞いてもいいのだろうか?」
「同じ事を聞いたら怒られないだろうか?」
「このタイミングで聞いていいのだろうか?」
「作業を始めたタイミングで聞いた方が相手も説明しやすいのでは?」
「相手には自分の仕事もあるだろうから私の質問は後回しの方がいいのでは?」
「質問は一気に聞いた方がいいのだろうか?それとも分散させた方がいいのだろうか?」

・・・流れはまだ止まりません。
断崖絶壁の波打ち際
「この作業が終わったら次にやる仕事はあるのだろうか?だとすれば何をやるのだろうか?」
「終わったら誰に報告すればいいのだろうか?」
「ノルマはあるのか?」
「(工場での作業の場合)この仕事は最終的にどういう物にどういう風に使われるのか?絶対に傷付けてはいけない部分はどこか?もしそれを傷付けたら修理は出来るのか?それはどうやってやるのか?もしくは不良品扱いになるのか?だったら替えはあるのか?」
「作業が終わったものはどこに置けばいいのか?ここがいっぱいになったら他に置くところはあるのか?」
「仕事が終わったら部屋の電気は消して行けばいいのか?機械の電源はどうすればいいのか?」

・・・これらが一気に流れ込んで来るので情報過多となった脳内では、肝心の仕事の説明が覚えられないという状態に陥るのです。

当初はなぜこんな状態になるのかと原因がわからなかったのですが、これはまさにHSPの「深く知る」という特性によるものだったのです。

そして最初のうちに全部を把握しておかないと気が済まないという性質もあったので、聞きたい事は増える一方なのです。
色とりどりの小さなボール
こうして聞かなければならないことは山のようにあるのですが、今度はそのタイミングでも悩むのです。
「今は仕事中で忙しそうだからやめておこう。」
「今は人と会話中だからやめておこう。」
「今は仕事していないけどこの時間にしか出来ない自分の用を済ませているし、申し訳ないからやめておこう」

そうこうしているうちにどんどん時間が経ってしまって
「もうこんなに時間が経ってしまったのだから今更聞けない・・・。」
と聞く事自体を諦めてしまうのです。
扉と壁
こうやってHSP特有の過度な気遣いが仇となり、質問が後回しとなって結局仕事覚えが遅くなったり、聞く事への恐れや抵抗によって聞けないことで勝手な自己判断で作業してしまい、失敗したり間違えたりという弊害を起こしていたのです。

完璧主義なのに仕事が完璧に出来ない、真面目に取り組みたいから聞かなければならないとわかっているのに聞けない・・・この葛藤で肝心の仕事に集中出来ない状態なのです。

こうして私は「人一倍、仕事覚えが悪い」と自覚したのです。

しかしHSPであってもこれをどうにかしたい、しなければならないと私は自分なりに対策を講じました。
本をめくる手
まずメモに関しては普通の人のように最初からちゃんと書くのが不可能なので、殴り書きでもいいから読み取れる程度にして「ちゃんと書く」ことを妥協したのです。
おそらくは完璧主義な性質がネックになっていたのでしょう。

その時はメモ帳やノートではなく大きめのコピー用紙などを用意してスペースを大きく使って書くことにしたのです。
そして仕事の合間や仕事が終わってからそのメモを清書するようにしました。
自分がわかりやすいように図で書いたり、自分で理解しやすい言葉に変換していったのです。

こうして覚えやすいメモが完成したことで仕事の覚えも良くなりました。
水しぶきをあげてジャンプしているイルカ
しかし情報過多の対策はどうしたものでしょうか。
これに関しては情報過多になること自体はもう私の性質なので変える事は出来ないのです。
なので私は情報過多の「捉え方」を変える事にしたのです。

今までは説明を受けている最中にも関わらず、溢れて止まらない情報に焦り、動揺し、パニックになったり、「この質問はいつ聞こう?」などと余計な心配事に囚われたりして振り回されるあまり、集中力をそちらに取られてしまっていたのです。

その結果「毎回こうだから今回もそうなる」というトラウマによるネガティブな決めつけをしてしまっていたので、まずはその気持ちを落ち着かせることにしました。

そして優先順位を確認すること。
「今は説明を受けているのだから説明を聞くことにのみ集中する」という自覚をしっかり持つようにしたのです。

今までの癖でどうしても無意識うちに自身の脳内の情報に持って行かれていた集中力の舵取りを、意識して操舵するようにしたのです。
すると説明も聞き取りやすくなり、覚えもよくなりました。
ライトアップされたイルカのショー
ちなみに「聞く事への抵抗」に関してはHSPとはまた違う原因で、母との愛着障害を克服することで解決しました。

それは母の認知の歪みに過ぎず「聞くことは本来、悪いことでも迷惑を掛けることでもない。」ということに気付けたのです。

そして相手の状態を気遣い過ぎて聞けない点に関しては「今、大丈夫ですか?」や「聞いてもいいですか?」、「前にも聞いたのですが忘れてしまったのでまた教えてください。」と確認を取るようにしたのです。

そうすることで相手にも教えるタイミングを選んでもらえるし、こちらの状況もわかってもらえるのでスムーズに事が運ぶようになりました。
・・・結局、聞けないことにより憶測だけで過度な気遣いをしていたのでそれがネックになっていたのです。

しかしこうやって聞く経験を重ねていくと、わからないことを聞いても怒る人はおらず、嫌な顔をする人もいなかったので聞くことへの恐怖心や抵抗感はほとんどなくなりました。

なので説明時に溢れた疑問質問も必要に応じて聞くことが出来たので、「わからない。」「どうすればいいの?」という不安の解消にも繋がりました。
無数のクラゲの水槽
こうやって克服したものの、私は自分の性質を厄介だなと思うこと自体は変わりませんでした。

ところがこんな風にネガティブな捉え方をしていた私が、今は「HSPで良かった」と誇りにすら思っているのです。
一体どういう思考の変化があったのか、今度はその経緯をお話していきたいと思います。
 
HSPの特徴として「感受性が豊か」というものがあります。
人より情報量が多いということで感動する要素が多いからでしょう。
些細なことが琴線に触れたり、周囲と同じ場面で感動するにしても他の人よりその度合いが大きかったりするのです。

ちなみに私は昔、感受性が豊かだと言われたことがあったので「自分はそうなんだ」と自覚している部分はありました。
しかし、それ以前は自分の感受性がどうなのかなどと考えたこともありませんでした。
正直、そう言われた当時も「・・・そう言われても、でも一体私のどこが感受性豊かと言えるんだろう。どこで判断したのだろう。」と謎だったのです。

今の分析なら、私が日頃から普通に感じていることを表現したそれらが、実は他の人から見たら着目点が違っていたり、独特な捉え方をしていたのだと思います。
らせん状の空間
そしてそれをしっかりと自覚したのが3年ほど前のこと。
職場である女性から「なにか楽しいことない?」と聞かれたのです。
彼女は旅行好きで海外にもよく行く程のとてもアクティブなタイプで退屈を嫌う人でした。

その時に私は「楽しいことならいっぱいありますよ。」と答えたのです。
しかしそれ以上、具体的な内容は言いませんでした。
なぜなら私の楽しいと彼女の楽しいはそもそもジャンルが違うからです。
彼女が望む楽しい事とは魅力的な旅行先だったり、楽しそうなイベントだったり、面白いドラマなどの情報でしょう。

けれど私の楽しいことは毎日、日常の至る所にあるのです。
疾走感のある雲と青空とフェンス
―例えば通勤時の早朝の空の色や雲の形など。毎日違った表情を見せてくれるのが私の楽しみのひとつです。

特にお気に入りの光景は一定期間のみ見られるある景色。
・・・それは四季の中でも冬だけが表現出来る、早朝のほんの僅かな時間にだけ許された表現。
肌をキリリと引き締める空気の中、朝陽に照らされた建物が自分の色を納めて、受け止めた陽を美しいピンクゴールドの輝きとして放つのです。

それは朝陽自身だけでは発せられない光の色。何らかの受け手があってこその発色なのです。
・・・この共同創造を悟った時に私はより一層胸の高鳴りを覚えました。
朝日と波のある海
帰宅時も夕暮れの朱と青空の残像のグラデーションが見事な展開を見せてくれたり、そこに多種多様な雲のアクセントも加わると何とも劇的な空になるその光景がたまらなく好きなのです。

そして道端にひっそり咲くすみれなど季節ごとに移り変わる花、桜や金木犀の香りなども楽しみのひとつです。

更には霜のザクザクとした踏み心地や傘を奏でる優しい雨音、葉をかすめる風の音など・・・
私の楽しみは毎日どこにでもあって尽きることはないのです。

―ただ、彼女はそこに楽しみは見出せないタイプなのは知っていたのであえて言いませんでした。

でも楽しみは人それぞれ。彼女の楽しみももちろん素敵なものです。

そしてこの時にふと気付いたのです。
「そういえば私って、こういう何気ない風景からも楽しみを見つけて感動出来るんだ。」
当たり前のように感じ取っていたことが実はとても尊いのだとそう気付いたのです。

「これってやっぱり感受性が豊かなおかげなんだ。」
HSPには「五感が敏感」という特性もあります。
その瞬間、私はHSPである自分を嬉しく、誇らしく思えたのです。
ツグミと桜
―これがHSPの意識をシフトチェンジ出来た瞬間です。
するとこれを機に、実はHSPゆえの感性のものだと思い当たるものがあったのです。
 
私は絵を見る時、「線」を見ます。

それはアナログ絵に限ったことなのですが、筆跡から様々な情報を得られるのです。
単純に線が美しい絵は大好きですが、それだけでなく「力強い線」や「迷いのないまっすぐな線」「意思の強さを思わせる線」「優しく繊細な線」などそこから人の性格や描いている時の心情が伝わってくる感じが好きなのです。

そう、まるで描き手の心に触れているような、普通のコミュニケーションでは味わえない不思議な感覚が私には心地よく、楽しいのです。

ちなみに私自身の絵の線からはどんな感覚が得られるのか、知りたいところです。
スコップと軍手のスケッチ
そして過去の印象的な出来事で高校時代の国語の授業でこんなことがありました。

教科書の題材のひとつに「山月記」という中国の古典を元にした物語があったのですが、私は授業をする前からこの物語にすっかり魅了されていたのです。

それはもう李陵がまるで自分自身を見ているようだったから。
共感だけでなく自身を重ねることで没入感は一層深まったのです。

そして授業でついに山月記を学ぶ時間がやって来たときのこと。
授業の終わりに宿題として「李陵に欠けていたのもはなにか?」という課題が出されたのです。
 
・・・その瞬間、私のスイッチが入りました。

李陵に欠けているものは私にも欠けているもの。
じゃあ誰よりも私がその答えを知っているのでは?
 
そこで私は考えたのですが・・・なぜかすんなりと答えが出ないのです。
課題は明日の授業まで。時間はあまりありません。
なので帰宅途中も、お風呂に入っている時も、夕飯を食べている時もずっとその「答え」に思考を巡らせていたのです。
アーチ型の天井の駅
―この時、意識や情報を深掘りしているのが楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。

結果、脳内を過剰稼働させたせいで頭痛を引き起こすまでになったものの、「答え」を導き出すことに成功したのです。
 
そして満足して迎えた翌日。国語の授業にて。

課題はプリントに記入して提出することになっていました。
授業の始めに回収された課題を先生がその場でチェックして、良いと判断された解答を模範として解説していくという形式でした。

そしていくつかの解答の解説がなされ、そろそろ最後かというところで先生の口調が変わったのです。
授業中の生徒と先生

「・・・私、この解答を見た時に衝撃を受けました。長く国語教師をしてきたけれど、こんなに感動した解答は初めてです。これを書いた人は小説家になれる実力があります。」

そう言って貼り出されたプリントは、そんなに大きくない解答欄をびっしりと埋め尽くすほどの文章で綴られた一枚でした。

 
それは私の提出したプリントでした。

まず記入する時に文章が溢れてきてしまって、とにかく書きたいものがあれこれと騒ぎ立てるのでそれらを何とか書き納めたのですがその結果、解答欄が真っ黒になるほどの仕上がりとなってしまったのです。

その超長文に関して先生の見解は
「同じ内容の事を表現を変えて書いている部分があるので、そこを直せば文章もすっきりするでしょう。」
とのことでした。

―どうも私は特に言いたいことや伝えたい重要なことを無意識のうちに繰り返して書いてしまう癖があるようで、それをこの時に悟りました。
英語の文章の本
そして肝心の解答内容ですが・・・残念ながらどういう風に書いたのかは忘れてしまったのです。

当時必死に考えた時に一種の「ゾーン」に入ったようで、その時の思考にならないといくら「今」の私が思考しても解答の再現が出来ないのです。

ただ「李陵に欠けているもの」が「自身の弱さを認める自尊心」的な内容だったと思うのです。

・・・私自身も自分の作品の欠点や未熟な部分を人に指摘されるのが嫌いだったのでこれのせいで能力は伸びなかったり、人間性に置いても自分の弱さを人に知られたくないからと人付き合いを避けてみたり、強がって見せたりする部分が良くないのだろうというのは何となく自覚はしていたものの、やはりそれを受け入れられずにいたのです。

しかしこの解答自体はおそらくいくらでもあるのではないでしょうか。
先生が感動したのはこの「解説文」だったのだと思います。

私がなぜその答えを導き出したのかという経緯から始まり、李陵の本性は、どんな思考をしているかなど様々な視点から「李陵という人間」を推測して時には自分と重ね合わせて表現したその解説文が先生に感動を与えたのでしょう。

本来なら解答は「〇〇の△△」のように一文だけでいいのです。
それを私はひとつの「作品」に仕上げてしまったのです。
沢山の本に囲まれた空間で中に浮かぶ一冊の本
―そして授業終わりのこと。

私は初めて先生に廊下に呼び出されました。
そして先生は私の両手を握って
「月狼さん、あなたすごいわ!どうやってあんな文章思い付いたの?本当に私、感動しました!ありがとう!」
と心からの賛辞を贈っていただいたのです。

・・・ちなみに「どうやって」という部分の答えには「ご飯食べてる時もお風呂に入ってる時も必死になって考えてたら浮かんだんです。」と答えましたが・・多分、他の人は同じ事をしても浮かばないと思います。

先生も不思議そうな反応をしていましたから。

それにしても当時はこの展開に私もびっくりでした。
とりあえず頭痛を起こすまで悩んだ甲斐はあったなと。
そしてこれが「私って文才あるんだ」という自信にも繋がりました。

そして今になってこの経験を振り返ってみると、この時の「共感力」「情報の深掘り」というのがまさにHSPとしての本領発揮だと気付いたのです。
しかもHSPの性質を最大最善な形で活かせたものだと思います。

柔らかい光の中の白い葉
このようにHSPの特性を上手く活かせれば大きな喜びや幸せになるのです。
それは自身だけでなく他人にも感動を与えられるものとなります。
 
HSPゆえに時には五感の過度な刺激、私の場合はミソフォニア(音嫌悪症)にも悩まされたり、感受性の強さが災いして攻撃的、支配的な人のターゲットにされたりと生きづらさを感じる事もあります。

でも私はHSPを言い訳にして弱い自分として生きたくはありません。

しかしそれ以上に私は自分の感受性のおかげで何気ない景色から感動を得られることが本当に嬉しかったし、それによって心が潤うという特別な喜びや充実感の方を大きく捉えるようになりました。

環境から感じた情報、そして脳内に現れた言葉や価値観や気付きなどを文字に起こすとそこから一気に新視野がとめどなく広がる、これが楽しくてたまらないのです。
「1を聞いて10を知る」ならぬ「1を聞いて10を得る」
こんな言葉が相応しいかもしれません。
 
そしてこのブログでもそうですが、文章を書く時、私は知性より感覚で言葉を選択しています。

文章の並び、言葉の韻、場面での雰囲気などからふと頭に浮かんだものを載せるのです。
しかし言葉の意味もしっかりと知らべ、間違いはないか、適切かをも確認します。

・・・この辺りは完璧主義がきちんをアシストしてくれているのです。

そして他に相応しい言葉がないかと思考したり悩んだりする、その作業自体もまた楽しいのです。
「知る」「学ぶ」という深掘りが好きな性質だから。
―ただし自分の興味のあるジャンルに限りますが。

だから今はHSPであることを誇りにしていますし、こんな自分が面白くてしょうがありません。
なのでHSPの人たちも自身を誇ってもいいのです。
三本のマーガレットに囲まれた一本のネモフィラ
―けれど誇り傲りは違います。ここだけは勘違いしないでください。
かつて傲りによって自分と友人を追い込んでしまった私からの忠告です。

HSPを理由にして「これだから非HSPは・・・」「私のほうが感受性あるんだから優秀でしょ」という傲り思考にならないようにしてください。

特に蔑ろにされた経験が多い中で自分の優れている部分を自覚すると、どうしてもその要素を振りかざして復讐や嫉妬に走りがちですから・・・。
彼岸花
HSPは元々「深く考え、深く知る」ことが出来る特性があります。
だから自身の弱点に対しても、生きづらさや日常で困る事があっても、その原因や対策を「深く考え、深く知る」ことで解決できるのです。

つまりは繊細な自分の身を守る術もちゃんと最初から備わっているのです。自己治癒出来る素質があるのです。
ではなぜ出来なかったのでしょう。なぜ苦しむ羽目になったのでしょうか。
 
―それは「気付いていなかった」だけのこと。
二羽のカワガラスの幼鳥
大切なのはどういう視点で物事を見るかと言う事なのです。
今まではきっとHSPの悪い面やネガティブな要素ばかりが目に付いていたのでしょう。
・・・そこで苦しんできたのだから当然かも知れません。

更にHSPには自己卑下しやすい傾向にあるという性質もありますから、ネガティブな部分だけに集中してしまったせいでそこだけを深掘りしてしまっていたのです。

それではまるでHSPが重苦しい厄介な性質にしか感じられませんよね。

しかしHSPには良い面もちゃんとあるのです。
というより個々の性質をネガティブな要素という見方しかしていなかっただけで、本当はあなたを活かす特性かもしれないのです。

なので視点を変えて良い面として深掘りしてみましょう。
HSPであるならそれが出来るから大丈夫です。
 
―だから私はもうHSPであることに悲観せず、誇っていくことにしたのです。
オレンジの光に浮かび上がるモミジ

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